鳥取県の二部村に生まれた辻晋堂は
20歳で上京し淀橋の独立美術研究所で
約一年間素描を学んだ。
二年後に日本美術院展に出品した
塑像 «千家元麿氏» は入選し
次いで発表した木彫作品は高く評価された。

戦時中は郷里に疎開していたが
戦後京都市立美術専門学校教授となる。
美術専門学校は後の京都市立美術大学
また今日の京都芸術大学。
晋堂は親友堀内正和を教授陣に迎え
新しい彫刻家養成課程を練りだし
後進の指導に力をいれた。

若い学生は教授達の旺盛な制作を
間近に見ながら
石膏、木、土、 石、ブロンズ、鉄などの
素材に親しんだ。

この時期の辻晋堂の作品は抽象的なものが多く
写す彫刻から表す彫刻へと向かっていた。
彼が陶彫作品を初めて発表したのは1956年であるが
これは京都東山に住んだことがその機縁であろう。
若くして木彫に独自の表現方法を探求して
直彫を始めたように
陶彫の技術的制約を想像力をもって乗りこえ
独自の表現法を編みだし
京都の登り窯でしかできない
大型の陶彫を焼いたのである。

当時美術大学の学長であった長崎太郎は次のように言う。
「私の友辻晋堂君は、この展覧会に就いて « 京都の窯の近所に居たのでこんなものを作る事が出来た。
陶彫の出来たのは全くその為めである。それ以外に何も言ふ事はない» と言ふ。(…) 
彫刻は生えないと云ふ京都で、同君と一緒に暮らしたのも既に七年、同君は一方にこの彫刻不毛の地に
熱情を傾けて学生の指導にあたり、若い学生に勇気と独創の意欲とを鼓舞しながら、他方自分の道に
精進の歩みをゆるめない。同君は常に内に掘り込んで其処から独創の涸れない泉の水を汲み出してゆく。
この度のどの作品も、すべて外に求めて出来たものではなく、唯だ内に内に掘りこんだ深い泉から流れ
でたものと見るべきであらう。これが、同君の制作が真にユニークな所以である。」 (1956年4月)

抽象的でありながら
作者の掌を感じさせる
辻晋堂の陶彫は
全く前例のない未開の分野
であると評された。

1968年末に大気汚染防止法が施行され
京都市内の登り窯の火が消えることとなり
辻は陶彫制作を断念。
その後は版画制作に意欲をしめし
また陶土以外の素材による作品を発表した。

1969年には自宅に設置した電気窯で
小型の陶彫作品をつくるようになった。
 晋堂が粘土細工と称した具象性のつよい小作品群は
写実とはほど遠い独特の世界をつくりだしている。