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辻晋堂の人と藝術

新海竹蔵 1943/44

今後の日本は、文化国家として立って行くより他に道はないと
云はれる。

私は是迄の日本を顧みる時、大きな缺点の一つとして、左の様
なことを擧げられると思ふ。それは社會の各方面共その上層に
在りその分野の所謂指導的位置を占めて居た人々の中に、その
道に於いて本質的なる者が至って少なく随分インチキなる人の
多かった事である。各々自己の属している職域の内を冷静に考
へて見るとき、この言の不當でないことに氣付く筈である。

藝術方面 — 私達の方では彫刻界 — なども同様であって、世間
的に優位の所に在る者の中で、本質的によき作家として真摯な
る作品を生まんとしてゐる者は實に少なかった。
これは独り日本のみの現象ではなく、大體どこの國でもオナジ
事かも知れないが、今日迄の日本は特に甚だしかった事は事實
であろう。逆説的に云へばインチキ性の者程、世にもてはやさ
れる如くでさへあった。
一つには明治以來西歐藝術を取入れたが、その質的な點迄は會
得し得なかった故もあるのかも知れない。

今後の日本は世界の日本として特に武力を捨て唯高度の文化国
家として世界の中に平等に立たなければならない。
然るに世界の眼は冷嚴である。些のインチキをも看過するもの
ではない。我々は資質劣り才能に乏しくとも大なり小なり各々
マジメに本質的なる作家生活を基としなければならない事と思
われる。

辻晋堂氏は私の数少ない友人の中で最も親しい友の一人である。
私の方が若干年長なので、氏が彫刻家としてこの道に入って以
來今日に至る迄の道程を殆ど直接みてゐるといっても言ひ過ぎ
ではないと思ふ。

私が同氏について先ず第一に感ずるのは、實に氏こそは性格的
に本質的な道を進む極くわづかの人の一人であり、めぐまれた
る資質ある作家であるといふことである。

性格は強く直線的である。ひたむきに制作に熱中する態度は無
類といってよく、戦争がまだ苛烈にならなかった正和十六、七
年頃の氏の制作欲求は瞠目すべきものであった。
次々に大作を出し、しかもことごとく本質的なる探求の下にさ
れたものであった。當時は大阪の黒田といふ特異な人が居て若
干の生活費を注いでくれた様であったけれども、氏の生活 態度
はそれらを盡く制作に注ぎ込んで實生計は殆ど最下に近かった。
私の知り得る限りではこの位徹底した作家生活をやって居る者
は他には無い。

それから真の作家は内生活の成長進展によって、作品も必然的
な變化 (進展) を示すものである。
これはその時々の流行によって、作品の表現が換はるといふ様
なものではなくて、その人の内部の成長によって作品も變るも
の故、親しくその人の作品を見てゐる者には、その質的な變化
がよく解るものである。この變化進展を示さない様なものは大
抵ほんとうの作家ではない者が多い様である。

辻氏の作品を顧るに、昭和八年に既に「千家元麿」の像を院展
に出してゐる。写実を基としたものであるが、しかも單なる冩
實に留まらず彫刻としての基本的なものを感じ得られる。
この道に入って日未だ浅い時のものであるから氏が如何に生ま
れつき彫刻家としての素質を多分に持っていたかを示すもので
ある。十二年の少女頭像、十三年の福井博士像、などと仝じ傾
向乍ら一歩づつ前進が見られる。

次に氏の作生活が一進して、形を大きく把握して面の豊かな、
量感 (ボリウム) の的確なものとなって来た。
十四年の院展に出した「婦人像」「出家」などがそれであるが
婦人像は院賞となった。優れた作家として、特異なる彫刻家と
して氏が大きく世に認められたのもこの期の作からであろう。
今見ても婦人像などは美しく、新鮮なるものである。

十六年の鎌を研ぐ村の男、平櫛田中翁をモデルとした夏のあし
た、十七年の詩人、村の女などと感覺は益々鋭敏に彫刻の詩情
は湧泉の如くに次々と大作を物して、特に詩人は當年の秋の日
本の彫刻中最も優作とされたものである。

「夏のあした」にモデルとなって、数日氏のアトリエに通われ
た平櫛翁は「辻君はなにしろ日本の彫刻は俺が換へて見せると
いふ氣組で居るんだからネ」とその何物にも躊躇せぬ若さを、
感慨深く漏らされたことがあった。

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中国筋の人は気性が烈しいらしい、氏も随分鋭角的な性格で日
常の不用意な言葉の中でも、如何にも作家でなければ吐けない
といふ敏感な言葉が多く、ほんものとインチキを區別する態度
などの際には胸のすく様な辛辣な一句で片着ける様な時が多い。
我美術界には作家らしい感覚を持ってゐるものが極めて少ない
ので、反って氏の言動などが奇矯に見へる時もあるのである。
一言にして云へば熱の人である。

私は先頃鴎外の伊澤蘭軒を讀んだところ、青年時の頼山陽のこ
とがあった。彼山陽は「一度大處に出て當世の才俊と呼ばれ候
者共と勝負を決し申度」と云ひ「四方を靡かせ申度」と云って
ゐる。今日は知らず、夏のあした、の頃の氏にはこの位な気概
はあったであろう。

その頃から又一轉して、木彫に際して直彫 (じかぼり) といふ言
葉を用ひ、制作の際に從来の如く最始に土を以つて原型を作り、
然る後にそれを木に冩すといふ事なしに、直接木材に向かって、
その制作意欲を造型するといふ態度をとる様になった。

これは彫刻造像上興味あることで私も常々美校の如く木彫を教
授する所では、初心の者に先ず素材の意義を會得させるにはこ
の様に直接木に向かって造像させる様にす可きものではないか
と考へているのだが、直彫といふのは木材といふ一定された大
きさと形を持つ材料の中で、それから逸脱することなく、形を
限定するといふ所から発してゐる。

彫刻といふものは自然の人間の勝手なる動作肢體をそのまま形
に作るといふことではなくて、人間の姿體の千差万別の動作の
中から一つの彫刻作品になる可き形を限定し、組織することで
ある。これを定式 (キヤノン) といってゐるが、近代ではブ一ル
デル、マイヨ一ル等自己の優れた定式を創定して、限りなく美
しいものがその中から生まれてゐる。日本の古代の優れた佛像
なども期せずしてこの木の定式の中に久遠の生命を出してゐる
わけである。

辻氏はこの方法で「野良の父と子」鶏を抱いて居る「鶏と女」
等を出した。その後は戦争が苛烈となり、ついで敗戰となって
純粋な彫刻を制作する時もなかったので大作の発表もない様で
あるが、これからの発展は期して待つ可きものがある。

氏はそういふ大作の他に、愛す可き小品をも時々作られる。
如何なる小品といへども出發する所は同じであるから、いづれ
も木といふ感じを充分に出して彫刻の味感がしみじみと出てゐ
る様である。私はこれ迄良寛、小猿、雌鶏、筍などを見てゐる。
小品乍ら感覚の清新な、彫刻感のたっぷりしたよき作品である。

氏は此度左様な木彫の小品を数點試みて、同好の士に頒けたい
といふ希望をもらされた。私は心から賛意を表するものである。
床の間や居間の一隅にこれらの小品を置いて朝夕それらの小さ
き作品からただよって來る静かな空氣を味ふことは心の喜びで
あり今日の苛立たしい時に於いては何よりの心の憩ひとなるで
あろう。

私は東北山形の産で、行動は因遁、緩慢で、考へは懐疑的にの
み傾く癖がある。辻氏と私の性格は火と水の如く相違するのだ
けれ共、久しく交を變へないのは妙なものである。私は氏に逢
ふ毎に眠っている制作慾に火を付けられる様な氣がする。

今後の日本の文化方面、美術方面の行手は甚だ困難を極めるも
のであろう。藝術の消長は國の経済状態と密接な關りを持つの
であるから、その困難はその度を一層加へるものと思はれる。

日本の将来は懸かってこの方面の興隆にあるのだから、その希
望も又涯しなく大きなものである。こういふ状勢の時、一にも
二にも必要なのは本質的なる、よき人である。

私は最も辻晋堂氏に期待をかけてゐるのである。

  

新海竹蔵 (1872-1972)
  日本美術院同人
  東京美術学校教授
  (現在の東京芸術大学)