Return

辻 晉堂の人と作品

木村重信
出典「辻晉堂陶彫作品集」講談社 1978


1 2 3 4 5 6

昭和三十九年、辻さんと柳原義達氏との二人展を神奈川県立近
代美術館が催した。副館長の土方定一氏の肝入りである。
この展覧会にはヴェニスから戻ってきた陶彫のほかに、東京に
置いてあった他の陶彫を加え、さらに『痴呆』や『是我かまた
我に非ざるか』と題する、木と鉄を併用した作品を出品した。
後の二点は昭和三十八年に制作にかかるが、きわめてユニーク
な彫刻で、木彫のうえに小さな鉄板がはりつけられた人物像で
ある。ともに材料の持ち味を生かしながら、細部表現をできる
だけ抑え、あらゆる感傷的粉飾なしに、単純化されたマッスに
よって、人体の本質をとらえている。
即ちアクシス (軸) を中心として回転するひとつの量塊としてと
らえている。したがって、いきおい三次元性が強調されること
になり、またシムメトリカルな構成に傾く。
このことは「ヴェニス・ビエンナーレ展」に出品された一部の
扁平な陶彫が「正面性の法則」に支配されていたのとは、著し
く異る。

このような円筒的性格にともなって、両腕は身体に密着してあ
らわされ頭は垂直となり、三本の脚には均等な力が加わって、
きわめて静止的な形態となる。これらの人像は実際に堅牢であ
るばかりではなく造形的にもきわめて堅牢な印象を与えるが、
素材の堅さと密着する触発的表象がこのような作品を生んだと
も言える。

• • •

• • •

辻さんの彫刻は、陶彫も塑造も木彫もブロンズ像も触覚的であ
るが、この『痴呆』と『是我か・・・』はとくにそうである。
私はこの二点にアフリカの黒人彫刻と共通するものを見出すが
それは触覚性の故である。その点、おなじ部族社会の美術でも
色彩と幻想にあふれるオセアニア彫刻はむしろ視覚的である。
視覚の触覚にたいする関係は、表面と物体との関係である。
したがって、触覚にもとづくアフリカ彫刻や辻さんの彫刻が造
形的堅牢性におもむくのに反し、視覚にもとづくオセアニア彫
刻は豊かな色彩による装飾性にむかう。
『痴呆』と『是我か・・・』の印象を一口で言えば力感にあふ
れた荒き作品である。それらは優美さを欠き、表現自体は荒い。
しかしそのような荒い表現に、かえってあらき(新き)もの、
あらき(生き)ものを強く感じさせる。

かかる材料における、また形式におけるあらきものの美は、
ひとえに触覚に支えられている。このような触覚の美を強く
訴える所に辻さんの彫刻の独自性と現代性がある

辻さんのこのような触覚的表象は、昭和三十五年につくられた
一連の碍子を用いた作品にもあらわれている。電流を絶縁する
ために円柱などにつけられた碍子をどこからか辻さんは沢山ひ
ろってきた。そしてそれらを、陶壁を焼くときに使う鞘と組み
あわせたり鉄のベルトや板で巻いたり、あるいは陶彫にうめこ
んだりした作品を作った。
乱雑に割られた褐色の四角い鞘に詰めこまれた白い碍子の束、
それらの作品は荒々しさのうちに不思議な現代的感覚を秘めて
いる。ユーモリストである辻さんは、これらの作品にいみじく
も『詰込教育をうけた子供』という主題を与えた。社会的には
おそらくこの頃から、受験勉強の弊害がやかましく論じられる
ようになったのだろう。