Return

辻 晉堂の人と作品

木村重信
出典「辻晉堂陶彫作品集」講談社 1978


1 2 3 4 5 6

昭和三十六年に辻さんは東京の日本橋画廊で個展を催し、
『寒山』『拾得』『祈る人』『天園』『呪術者』『樵と熊』
など二十点を展示した。いずれも「ヴェニス・ビエンナーレ展」
に出品した穴のあいた扁平形の陶彫の延長線上の作品であるが、
具象的イメージはほとんど払拭されて、抽象性がさらに強めら
れている。これらの作品を見ながら、滝口修造氏は「家」のイ
メージを抱いた。

「辻さんの陶器の彫刻を叩きながら、思わず私はひとつの家を
想像する。それは蟻の家に似て、食物はたくわえられない。
おそらく風が巣くっているのかも知れない。しかし案外、そこ
に訪れる人もあるであろう。
まず子細らしく叩いてみて家相を確かめる慎重な訪問者もある
であろう。時には戸をかたく閉ざして夢みている壁もある。
実際私が叩いているのは寒山拾得の家ではなくて、体であった
かも知れぬ。

彫刻家が人をつくるつもりで、家をつくっていることは昔から
大いにありうることで、その逆もまた真であろう。
人間自身も、住みながら住まわれる彫刻である。私は寒山拾得
のへそから訪れることを好む。」

滝口さんの指摘は鋭い。
後年イサム・ノグチも同じようなことを言い、また辻さん自身
も昭和四十一年にアメリカのニュー・メコシコ州のサンタフェ
の北方にあるタオスのインデイアン集落でアドベ (日乾煉瓦)の
家を見て、自分の彫刻にあまりにもよく似ていることに驚いた。
プエブロ族のアドベの家は、その形も色も、ところどころに開
いている窓も辻さんの陶彫にそっくりであったからである。

この年 (つまり昭和三十六年に) 辻さんはカーネギー美術館の
ウオシュバーン館長の依頼をうけてピッツバーグの「カーネギー
国際美術展」に『寒山』などを出品した。
しかしこれは日本橋画廊の個展に出した『寒山』とは別の作品
で多くの平べったい部分を前後左右に組み合わせた、きわめて
立体的な陶彫である。
面の取り扱いが従前のものよりも厳しくなり、緊張した空間を
構成している。つまり、これまでの内へむかったヴォリューム
に、外へむかうヴォリュームが加わって作品のスケールがより
大きくなった。これらの作品はカーネギー・インステイチュー
トおよびロックフェラー三世夫人の所蔵となっている。

ウオシュバーン氏とは私も辻さんの研究室で会った。
そのとき、ウオシュバーン氏は二点の小品を買った。ひとつは
自分のため、他のひとつは、彼の友人で、後にカーネギー美術
館長になった建築家のシュワイカー氏のためのものである。
辻さんの研究室にある作品のなかから、気に入った二点を選ん
だウオシュバーン氏は「いくらか」と辻さんに値段をきいたが、
辻さんは答えない。三、四度きいたが、返答はない。傍らにい
た私は「千ドルではどうか」と口を出した。ウオシュバーン氏
は直ちに「OK」。
しかしこのことでウオシュバーン氏が帰ってから辻さんが
「千ドルは高い」と私に文句を言った。「買手がOKならそれ
でいいじゃないか」と言っても、肯じない。この件は、同席し
ていた山田画廊の山田哲夫さんにまかせることになったが、
もしかするとウオシュバーン氏の人柄にひかれていた辻さんは
ただで進呈しようと思っていたのかも知れない。というのは、
無欲な辻さんの場合この種の寄贈が時折あるからである。

私も辻さんから作品を貰ったことがある。現在の家を新築した
昭和四十四年のことである。ある日 庭で物音がするので出てみ
ると、辻さんが庭を行ったり来たりしている。何故かと聞くと、
新築祝いに作品を持ってきたが、適当な設置場所を探している
とのこと。その作品は白い陶彫だったので、戸外ではよごれる
から家の中の方がよいのではないかと私が言うと「いや、庭の
隅の方がふさわしい」との言。
そんな争いをしていても仕方がないから、何はともあれ飲もう
というわけで、その日は徹夜で飲み明かした。

その後、私はこの作品を床の間に置いた。そして佐野猛夫さん
から中国旅行土産として貰った中国の古い石碑の拓本の軸を掲
げた。数日後に来遊した八木一夫さんが床の間を見て、大変よ
い空間だとほめてくれた。ところが八木さんは皮肉屋だから、
辻さんには「あんたも落ちぶれたもんだ。床の間に作品を飾ら
れるようでは」と茶化した。このことを聞いた辻さんは早速電
話してきて、「木村君、頼むから床の間に置かないでくれ。俺
の言うように庭に置いてくれ」とのこと。
私がいくら八木さんがほめたといっても承知しない。やむなく
私は庭に置くからと言って、その場をつくろった。辻、八木、
私という、ごく親密な三人のたわいないエピソードではある。
妄言多謝。

さて、昭和三十七年に辻さんはニューヨークのオスグッド画廊
での「十四人の日本美術家展」に出品し、さらに三十九年には
京都の紅画廊で個展をした。紅画廊の展覧会に際して、今泉篤
男さんは次のような文章を書いている。

「彫刻家辻晉堂の仕事に異常な密度ある精気がひそんでいるこ
とを私が知ったのは、戦前の院展に写実的な作風の木彫の男の
坐像などを出していた頃だから、かれこれ三十年以前である。
それから現在に至る期間、彼は彫刻界の第一線の作家として歩
み続けている。
この三十年間は、世界の彫刻界にとっても日本の彫刻界にとっ
ても、様式的推移の激しさが同時に作家の新陳代謝の激しさを
示した時期であった。この時期に、二十才台で気鋭の第一線作
家たることはさして珍しいことではないが、五十歳にしてなお
第一線たる位置を保つことは難事と言えば極めて難事であった
と言える。
辻晉堂はよくその間息が続いた。
この蓬髪痩躯の男のうちに、美術家としての真の根性が潜んで
いるのである。

• • •

• • •

戦後の、焼物にした陶土の作品はフォルムの構成として案外制
限されたところがあって、厄介な仕事である。彼がこの仕事に
取り組んだ時私は内面ひそかに、収拾のつかない破綻におちこ
むのではないかと案じていた。

ところが、辻晉堂は何とかその困難を乗り越え1957年にはサン・
パウロのビエンナーレ、58年にはヴェニスのビエンナーレにも出
品することができた。私はヴェニスで彼の作品を、多くの海外
の彫刻家の作品と比較して見る機会があったが、素朴でぶっき
らぼうで、少しもあいそはないが、不思議な心の温かさがが出
ていて悪くなかった。温かさだけでなく、表情に混濁していな
い澄んだものが出ている。
近代彫塑の表情としては単調な方だが、それが日本の作家とし
ての伝統との強い繋りを示しているものと言えるだろう。

辻晉堂の芸術の一番いいところはそんな点だが技術的には密度
と暢びとがよくバランスを保っている点に感心している。彼の
鉄の作品も結構面白い。」

さすがに今泉さんは、辻さんの作品および人柄をよく見ている。
また、陶土による彫刻には技術的に多くの制約のあることを知
っていて温かい眼差しで辻さんの仕事を案じていた。

しかしその心配は事実においては杞憂となった。
この個展で辻さんはさらに飛躍し従前の扁平スタイルを一層扁
平化してそれこそぎりぎりのエッセンスだけを示した。
今泉さんの言う「素朴でぶっきらぼうで、少しもあいそはない
が不思議な心の温かさ」を感じさせる作品である。紅画廊でこ
れらの作品に接したとき、私は次のようなことに気づいた。

画家や彫刻家には大別して二つの型がある。
不必要なものを「取り去る」という方法で、究極の形態を求め
るタイプと、種々の要素を「つけ加える」ことによって作品を
構成するタイプとである。前者を減算型、後者を加算型と呼ぶ
とすれば、辻さんは減算型の作家である。

辻さんは「ロダンの彫刻はきらいだ」という。
もっと正確に言えば「若い頃に塑造をやっていた頃は好きだっ
たが、今はきらいだ」とのこと。これは興味深い発言である。

たとえば、ロダンは裸体や着衣の『バルザック像』を多くつく
っている。頭部だけで二十二、全身像で七、衣装のために十六
という多数の習作を試みている。頭部、身体、衣装と別々に追
求して最終的にそれらを一つの像にまとめるという追求の仕方
はまさしく加算的である。また、ロダンは後半生のほとんどを
費やして未完の大作『地獄の門』を造ったがそれ自身一つの壮
大な集合的加算的な作品ではなかったろうか。

これに反して、辻さんはロダンのようには構想しない。
このことは辻さんが若い頃に平櫛田中氏に師事したこと、そし
て木彫を手がけたことが大いに関係している。
その理由はこうである。
塑造による造形と、木彫や石彫による造形とは方向が逆であり、
前者は「つけ加える」ことによって、後者は「取り去る」こと
によって最終の形態を決定する。
ロダンの青銅彫刻が豊かな生命を秘めて個性的な力をみなぎら
せるのに彼の大理石彫刻が概して迫力に乏しいこと、ここに加
算的作家であるロダンの資質が端的に現れている。

ところが辻さんはむしろ減算型である。
今泉さんの言う「近代彫刻としては単調な方である」というこ
とは、不必要なものを極力取り去って窮極の形態を求める辻さ
んの制作態度ないし出来上った作品に対する感想である。
そのような辻さんの減算的資質が、陶土による造形においても、
いま全き形で具現され、そしてまた、くぼみや穴などの、いわ
ゆる虚空間 (別の言い方をすれば減算的空間) が、実空間よりも
辻さんの彫刻において重要な役割を演じるのである。

辻さんのこのような追求はその後、年を追うてますます強まる。
昭和四十年の秋には東京の壱番館画廊で個展を催し、四十年か
ら翌年にかけては、ニューヨークの近代美術館をはじめアメリ
カ各地を巡回した「現代日本絵画彫刻展」に出品する。
前者ではリトグラフ作品をも展示した。これらの展覧会に出品
された陶彫は、たとえば『ポケット地平線』のように、従前の
ものよりさらに扁平となった。それとともに、構成のうえで不
必要なものはとことん除去されている。それらの作品は辻さん
にとっては未見のプエブロ族の家の壁さながらである。

昭和四十一年にニュー・メキシコ州のタオスで、辻さんはアド
ベづくりの家を見て、その類似に驚くのである。なお後(昭和
44年)に辻さんは実際にプエブロの家を見た時のイメ−ジに即し
つつ『タオスにて』という作品をつくる。これは 昭和四十五
年の京都国立近代美術館における「現代の陶芸・アメリカと
日本展」に出陳された。順次に重なる三つの面に小さな突起を
つけたり穴をあけたりした作品であるが、前後する面の構成と
その変化がユニークである。

昭和四十一年、辻さんはニューヨークでの「ジャパン・アート・
フェステイバル展」と、パリのロダン美術館での「第三回国際
現代彫刻展」に出品する。前者には『寒山』『巡礼者』『東山
にて』の三点を、後者には『歩く壁』と題する高さ1.5メートル、
横1.9メートルの漆の焼付塗装を施した鋳鉄製の彫刻を出品した。
『寒山』は平べったい面に彎曲した線状の突起を入れたスタテイ
ックな彫刻で『歩く壁』も同様の作風である。

このとき辻さんは、ロダン美術館を訪れたが、自分の作品に大
きな自信をもったと言う。私もアフリカからの帰路にこの展覧
会を観たが、辻さんの意見を肯定する。百点ほどの彫刻が並ん
でいたと思うが、老大家のザツキンなどを除き、あまり優れた
作品はなく、隅の方におかれていた辻さんの『歩く壁』がひと
きわぬきんでていた。