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辻 晉堂の人と作品

木村重信
出典「辻晉堂陶彫作品集」講談社 1978


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辻さんと八木一夫さんとは、無類の仲良しである。二人とも口
が悪いから、飲めば激しい議論となるが、腹の底では互いに尊
敬しあっているから、深刻なことにはならない。
八木さんが京都市立芸大の陶磁器科の主任教授になるまでは、
長いあいだ彫刻科の非常勤講師であった。八木さんは陶芸家な
のに、彫刻科の先生であったというのが面白い。
今でこそ八木さんの名声は高いが、かつてはそれほどでもなか
った。むしろ逆に、陶芸界を乱す反逆者として、保守的な作家
たちから嫌われていた。
ところが辻さんは早くから八木さんの作家および美術教育者と
しての才能を高く評価して、彫刻科に招いた。

そのふたりが、昭和四十二年に東京の壱番館画廊で「二人展」
を催した。辻さんは陶彫を、八木さんは黒陶を、それぞれ十点
ずつ、出品した。八木さんが、黒陶に本格的に取り組みだした
のは、このころからではなかったかと思う。

同じ年、辻さんは毎日新聞社の「現代日本美術展」に『東山に
て』を出品しまた二紀展に『颱風の四角な目とムカデ』を出品
した。前者は先述の『ポケット地平線』のスタイルで、それの
横幅を狭くした作品であるが、後者は新しい領域を開拓した注
目すべき作品である。

156 x 62 x 12 センチという寸法からもわかるように、きわめて
扁平な陶彫であるが、表面にムカデが這った跡のような線刻が
ほどこされている。
この種の手法は「ヴェニス・ビエンナーレ展」に出品された
『寒山』にも用いられたが、今度はそれがより記号化されて、
不思議な幻想をよび起す。それはたとえて言えば、旧石器時代
の洞窟の壁に重ねがきされた線刻画のごとくであり、見る者の
イマジネーションを強く触発する。

それにしても不思議な作品である。
単なる彫刻でもなければ、焼物でもなく、また絵画でもない。
三者を総合した、まったく新しいオブジェである。そのオブジェ
が生命そのものを充填した生きもののように息づくのである。

辻さんにとって作品とは、それに作者の主観が特記されるべき
ものではない。辻さんは作品にたいして付加される述語をでは
なく、主語である作品そのものの実存を問題にする。
自然の原理は、こざかしい人間の知性を超えてはかりがたく非
合理で偶然であってみれば、作品も匿名な自然物と同じ様に主
観を超えた偶然的なものでなければならないと辻さんは考える。
その意味で辻さんは、卵や樹や石のような自然物と等価値の作
品という物体をつくりだそうとするのである。

一つのオブジェとして匿名でありながら、しかも個性的である
こと −− このデイアレクテイックを辻さんは生涯をかけて追求し
続けるもののようである。そしてそのオブジェが、昭和四十年
代により一層即物化されることによって、いわば極地に達した
のである。
芸術がかつてのごとき各個の主観の媒介者たる意味を失いつつ
ある現在、辻さんの作品が投げかける問題は、きわめて重大で
あると言わなければならない。

その後、辻さんはしばらくの間、彫刻よりもリトグラフの制作
に励む。リトグラフは昭和三十九年の京都・紅画廊での個展、
昭和四十年の東京・壱番画廊での個展などで既に発表され昭和
四十二年には大阪の白水社画廊でリトグラフだけの個展を催し
ている。辻さんは早くから版画に興味を抱き、京都市立芸大に
おいても、絵画科に先んじて、彫刻科に版画教室を設けた。

そのような版画への感心が、昭和四十年代の後半にとみに高ま
りひととき彫刻の制作を中断してまで、それに打ち込んだので
ある。なお、これに関しては、そのころ公害問題がやかましく
なり、京都市内から登り窯が撤去されたのにともない、これま
でのように焼き肌を生かした陶彫をつくることができなくなっ
たことも関連している。つまり電気窯では、登り窯におけるよ
うな焼きしめができなくなったからである。

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ところで、この作品集には版画は収録されていないので、詳し
くは述べないが、辻さんの版画にはリトグラフ (石版画)と木版
画とがある。初期のリトグラフはいわばアンフォルメル調だっ
たが、漸次フォルムがはっきりしてきて、ときには具象的な事
物さえあらわれるようになった。

たとえば白水社の個展には折から開催されていた「ミロのヴィ
ナス展」を皮肉ったリトグラフが陳列された。(『長い長い行列』)
この絵では、画面全体がフランス国旗の赤・白・青の三色によ
って構成され、下方に美術館があり、その壁に日の丸が掲げら
れている。美術館以外の空間は戸外で、そこには大勢の群衆が
列をつくって、幾重にも水平に並び、美術館の入り口にむかう。
出口からはカタログの入った紙袋を持った人びとの列が続く。
しかし画面のどこにもミロのヴィナスは描かれていない。物見
高い観客およびこのような愚劣な展覧会を企画した主催者にた
いする、辻さん独特の皮肉なプロテストである。

また、昭和四十五年に京都の平安画廊での「素版展」に
『第二富士山造成計画』と名づけられたベニア板一枚大の木版
画が展示されたことがある。画面の右側に辻さんが坐りこんで
酒を飲んでいる場面があり、左側に富士山がある。しかしこの
富士山は伏せた盃を積みあげて構成されている。
当時六十歳であった辻さんは、こんなことを考えた。
あと十年間におそらく五百回ぐらい酒を飲む機会があるだろう
が七十歳ともなれば、富士山の頂上の三つ四つの隆起ぐらいの
回数になるだろう。そうすると山の麓、つまり六十歳代の前半
に飲む回数を多くしなければ、勘定が合わなくなる。このよう
に計算して、辻さんは当時意識的に飲む回数を増やそうと努め
た。酒好きの辻さんならではの発想であり、またそのような考
えを木版画にして自らの覚悟を固めるあたりに「描写のうしろ
で寝ていられない」辻さんの気質が如実にあらわれている。

その頃、辻さんは大きなモニュメントをつくっている。それは
大阪の千里ニユータウンの完成を記念するためのもので、昭和
四十五年につくられ、南千里公園の丘の上に立っている。
高さ四メートルの縦長の真鍮製の抽象彫刻であるが、きわめて
幾何学的な構成で、平らな面を組みあわせたものである。

辻さんはこの種のモニュメントを各時期に数多くつくっている。
たとえば大阪の歌舞伎座の大屋根の棟の端を飾る鬼瓦がわりの
金属彫刻は、高さ三メートルほどの大作で、歌舞伎役者の隈取
にヒントを得た厳しい抽象的形態に鬼瓦のイメージを重ねあわ
せたものである。 (昭和33年)

また京阪電車の淀屋橋乗り入れを記念してつくられた大きなブ
ロンズ彫刻 (昭和37年)、生命保険会社の従業員で原爆の犠牲と
なった人達の霊を慰めるために広島の平和公園近くに建てられ
たブロンズの記念碑 (昭和40年) などがある。
そのほか横浜市役所 (昭和33−34年)、早稲田大学文学部 (昭和37
年)、日生劇場 (昭和 38年)、滑川市役所 (昭和38年) 正面玄関の
彫刻などがある。
これらの多くは、建築家の村野藤吾氏と協力してつくられたが、
わが国の建築家と彫刻家との協力関係において、村野さんと辻
さんとのコンビが最も成功しているのではないかと、私は思う。

ここでも辻さんの作品の即物的性格が建築と有機的に結びつく
のである。