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辻晉堂小伝

安達允
鳥取県伯耆町二部地区活性化推進機構顧問


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独学から木彫界の寵児に

熱中

辻為吉は明治43年 (1910) 10月28日、父藤一母茂代の長男として
二部で生まれた。名付け親は村長の山根幸史、生家は農家であ
る。小学校を卒業すると大工の弟子となる。
大正デモクラシーの余韻のあるところで文芸に親しんだ。
4歳で母を亡くしたためか、仏教に関心をもつようになる。
絵や彫刻に優れた才能があり、材木の切れ端に魚を刻み吊るし
ておいたら猫が飛びついたという伝説めいた話がある。

21歳のときに上京し、労働しながら約一年間洋画を学ぶ。
やがて独学で彫刻を始め、昭和8年の院展 (日本美術院展覧会)
に辻汎吉の名で石膏『千家元麿氏像』を出品。初入選を果たす。
以後、厳選で知られる院展に入選を続け、日本美術院の院友に
推挙された。前途にある程度の見通しが立ち、昭和11 (1936) 年
兵庫県浜坂町の松森静恵と結婚する。

26歳と同年齢で、若い芸術家達が多く住む東京池袋に新居を構
えた。翌年長女茜が生れた。
心機一転得度して仏門に入り晉堂と改名し、これが本名となる。
晉は進と同じ意味で、前進し続けるという意気込みが伺われる。

アトリエに自警文「イマヤラネバ イツデキル オレガヤラネバ
ダレガヤル」を掲げ、のぼせ気味に猛烈に制作に熱中した。

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栄光から苦難へ

木彫に本格的に取り組み『婦人像』『村の男』などを出品した。
作風は清新で独特のもち味があり高く評価され、高位に入選を
続ける。昭和16年には二部村の依頼でセメント『拓士の像』を
制作。約半世紀後にブロンズ化され、郷土のシンボル的存在と
なっている。

昭和17年の院展に木彫『詩人 大伴家持試作』を出品した。
万葉の大歌人を現代の裸身の若者で表現し、意表をつく。
若者の腕にとまっているのは、家持が万葉集で歌っている愛鷹
大黒であろう。心なしかうかがわれる憂愁の面持ちは家持の思
いかもしれない。作品の出来栄えは素晴らしく、かつてない最
高の第一賞に輝いた。

彫刻界のある長老は「わが国の木彫界の将来を担う者は辻をお
いてほかにはいない」と激賞した。32歳という異例の若さで、
権威ある日本美術院の同人に推挙された。志を立てて郷関を後
にしてからわずか11年、辻の彫刻家としての地位は定まったと
いえよう。

しかし、昭和12年に始まった中国との戦争が泥沼化。さらに太
平洋戦争の戦況悪化によりすべて軍事優先となり、美術団体の
多くは解散のやむなきに至った。辻は二部村に疎開し、日野郡
役所跡に粗末な家を建てて住む。
一家は妻と三女一男の六人だった。

昭和16年から日野郡農林学校の教師となる。同僚に最後の文人
と称された早川幾忠がいた。苦難に満ちた日々だったが、辻は
研究や制作を続けていたようである。