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辻晉堂小伝

安達允
鳥取県伯耆町二部地区活性化推進機構顧問


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奥深い奔放な思想

兀兀会

昭和20年 (1945) 8月15日、敗戦の日を迎えた。国中が混乱のふ
ちに投げ込まれたようなもので、窮乏の日々が続く。

辻は日本美術院同人というまれな存在であったが、うまれ故郷
ではそほど尊敬もされず暮らしていた。
そのうち世情が少し落ち着くと、七−八人が定期的に傳燈寺に
集まり、座禅の集いを持つようになる。辻がその中心で兀兀会
と命名した。兀兀 (こつこつ) とは仏典にある言葉で、どっしり
と坐し動かぬさまだという。
メンバーはそれぞれ短歌、俳句、絵画、漢詩文などにたしなみ
のある人たちだった。座禅のみならず、混乱の時期にいかに対
処すべきかを語り合い、活発な文化活動を行った。当時として
は珍しいサロン的存在といえよう。

昭和24年、辻は京都市立美術専門学 (後の京都芸術大学) 彫刻科
教授として迎えられる。辻は従来の彫刻教育とはまったく違う
斬新な方法で学生たちを指導する。末梢的なことにあまりこだ
わらず、人間としての生き方を教え込むことに重点をおいた。
大家と認められながら、彼は新しいものや真なるものを追求し
続ける。
かねてから高僧岸澤惟安に深く心服し、彫刻制作について教え
を請うた。老師は「忘れるだけ忘れてしまい、残ったものを形
に表せ』とさとす。
辻の作風は具象から抽象へと変わり、陶土を素材として造形し、
登り窯で焼く陶彫を制作するようになった。

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孤高の作家

昭和31年 (1956)、東京で初めての個展を開く。
『寒山拾得』『猫の頭』『禁煙』などの14点はすべて抽象の陶
彫だった。土のもつぬくもり、荒削りの表面、ユーモラスで大
胆な形など何ともいえぬ存在感があり、これらは人々がそれま
で見たことのない彫刻だった。この個展は大きな反響を呼び、
辻の名は一躍クローズアップされた。

これがきっかけとなり翌32年サンパウロ国際美術ビエンナーレ
に陶彫三点を招待出品。
33年の最も権威あるベネチアビエンナーレにも日本を代表する
作家の一人として陶彫『寒山』『沈黙』『巡礼者』『馬と人』
『蛙』『牡牛』『山と人』の7点を送り出す。

作品は好評で、以後世界各地の国際美術展にたびたび招待出品
するようになる。彼の陶彫は世界的に認められたといえよう。
彼の作品には奥深い奔放な思想が秘められ、技術的にも工夫を
こらした独特なものがあり、辻に続く陶彫作家はいないといわ
れる。

昭和8年の初入選以来日本美術院に属していたが、感ずるとこ
ろがあり脱退し、以後は独立自由な立場を保つ。
「孤高の彫刻家」と称されるようになった。