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辻晉堂小伝

安達允
鳥取県伯耆町二部地区活性化推進機構顧問


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美を追い求めた真実の人

躍進した昭和30年代

昭和30年代の辻の活動は実にめざましいものがあった。たびた
びの個展や海外の美術展への出品などで名声を高め、長期間に
わたる欧米への研修旅行で見聞を広めた。
全国各地に約40もの野外彫刻やモニュメント (記念建築物) を残
しているが、その多くはこの頃の作品である。

横浜市庁舎に『海・波・船』というモニュメントがある。十数
種の彩色タイルを駆使した高さ7メートル、長さ延長50メートル
もある壮大な抽象彫刻で横浜市を象徴するものとして市民に愛
着を持たれている。さぞ多額の製作費とささやかれたが、辻は
金銭に淡白でむさぼらず、手にしたのはわずかだったという。

大阪市難波の新歌舞伎座の屋根にそびえる大きな鬼瓦は、役者
の顔のくまどりをモチーフにした特色のあるもので、長く人々
に親しまれた。そのほか早稲田大学文学部の陶壁3点、大阪市
淀屋橋駅のモニュメント、明石市天文台の陶壁など名作と呼ば
れるものが多い。

昭和40年代になると環境や公害問題が真剣に論じられるように
なり、43年には大気汚染防止法が施行された。
京都市中に多い登り窯はすべて撤去され、山を越えた山科方面
に移された。

辻は山科まで行って陶彫の焼き込みはしなかった。
陶彫の制作は終ったのである。

辻は山科まで行って陶彫の焼き込みはしなかった。陶彫の制作は終ったのである。

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スジシンドー

京都市立美術専門学校は、音楽部も備えた京都市立芸術大学に
昇格していた。辻は古参教授だが、党派に偏らずスジを通す方
で「スジシンドー」のニックネームがあった。
まじめで正直だが、人と衝突して絶交することがよくあり、
「絶交の名人」とも呼ばれた。しかし反省して和解し、和解の
仕方が実にさわやかで、相手はまた辻にほれ直したという。
服装などに無頓着で酒を愛し、酒豪といわれていた。昭和49年
の学長改選に当たり、正義派の辻は人望があり、本人の承諾な
く当選した。辻は大病を称して堅く辞退した。

やり直しの選挙では、親しい友人で哲学者の梅原猛が当選就任
する。昭和51年、27年間勤めた京都芸大を66歳で退職する。
翌年、京都市文化功労者に推挙される。筆まめで美術評論など
に健筆をふるい、新聞や雑誌によく発表した。

昭和56年一月、食道癌のために入院する。
病状は悪化し、8月18日京都市東山区の自宅で亡くなる。
70歳9カ月だった。

辻の生涯は常に真なるもの美なるものを追い求め、ひたむきに
精進努力を続けた一生といえよう。京都芸大での同僚で辻をよ
く知る美術評論家木村重信は、ひとことで言えば「真実の人」
であったと述べた。辻を評してまさに至言といえよう。