泥古庵雑記


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粘土細工

忘れるだけ忘れてしまって、そして殘ったものを表はせ。
岸澤老師は、さう教へられた。心の中に殘るものがいちばん大
切なもので、忘れてしまふところは不要なものだ。それだから
忘れてしまふのだ、と。

老師の肖像を作ったのは昭和十九年の暮れから二十年の五月の
中頃までの間であった。
私は、この仕事が終り次第に滿洲国の新京に行くことになって
ゐた。しかし、仕事を仕上げたときは、もう滿州へ渡っても何
もできないだらうと私は判斷し、斷念した。若しあのとき滿州
へ渡ったとしたら、すぐまた引上げなければならぬことになっ
て、果して生きて歸れたかどうかわからない。

二十三年の春、岸澤老師は或る寺の授戒會の戒師として行かれ、
戒會の後その近くの温泉で一二泊して歸山なさるといふことで、
私はお供をさせていただくことになった。その折に教へられた
言葉である。
この教訓は、それから後の私の彫刻に變化が起るもとになった。

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近年になって私の考へは又又變ってしまって「彫刻」といふよ
りも幼児の粘土細工のやうなもになってしまった。だから
「彫刻」といふシチ難しい考へを捨てたと云ってもいい。
「彫刻」になってゐなくたって一向に構はない。
却ってその方がいいと私は思ふやうになったのだ。肩肘を張っ
て構へることはない。

それで、作るものの大きさも、以前のやうに無暗に大きなもの
を作らうとしない。焼物は自分の兩手で持ち上げられないやう
な重いものは作らない方がいい。
こんなことも幼児の粘土細工によって教へられたやうなことで
もあるし、彫刻といふ考へを放棄することによって自然に無理
をしないでものをつくることになったと云ってもいい。
年がよると子供のやうになると云ふが、どうやら現在そんなと
ころに差しかかってゐるやうに思へる。

そして岸澤惟安老師の訓誨どほり、いろんなことを忘れてしま
って、殘ったものを形に表はすといふことになりかかって来た
やうに自分で思ふのである。若しも未だ其處に至ってゐないな
らば、至るやうに努めねばならない。

「辻晋堂陶彫作品集」講談社 1978